グローバル・ガバナンスは虚妄か ――ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドクス』を読む――

グローバル・ガバナンスは虚妄か

――ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドクス』を読む――

               『季刊ピープルズ・プラン』第79号、2018年2月          

 

  • はじめに

 トランプ政権の「アメリカ・ファースト」、イギリスのEU離脱、ヨーロッパにおける極右政党の台頭、こうしたグローバリゼーションに対する反発は、国民国家体制への回帰を意味するのか。グローバリゼーションは失速したのか。

 たしかに世界政治の次元では1国主義の潮流が目立つが、世界経済の次元では国境を越えたモノ、カネ、ヒト、情報の流れはさらに加速している。グローバリゼーションにおけるこのような政治と経済のギャップをいかに捉え、どのような克服の展望を見出していくべきであろうか。

 ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドクス』(柴山桂太・大川良文訳、白水社、2014年)は、この問いを考えるうえで格好の文献である。タイトルが示す意味について、訳者は、国境を越える経済と国家単位にとどまる政治(統治)との乖離を表していると解している。また本書の副題は「世界経済の未来を決める三つの道」であり、三つの選択肢が提示されている。

 著者のロドリックは、トルコ出身のアメリカで活躍する国際経済学・政治経済学を専門とする研究者である。本書の原著は2011年の刊行であり、訳者によればすでに12ヵ国語に翻訳されているという。本書に先行して、『グローバリゼーションは行き過ぎか?』(1997年)、『一つの経済学、複数の処方箋――グローバリゼーション、制度、経済成長』(2007年)などの著作があるが、いずれも邦訳されていない。なお、訳者の一人、柴山桂太氏は、政治経済思想を専門とし、『グローバル恐慌の真相』(中野剛志との共著、集英社新書、2011年)、『静かなる大恐慌』(集英社新書、2012年)などの著書がある。

 本書は全12章(および序章、終章)の構成であり、グローバリゼーションの歴史をひも解く1~4章、現状の問題点を考察する5~8章、解決策を提起する9~12章に三分される。以下、順を追って注目すべき論点を抽出し、後半では本書の問題点について検討を加えることとしたい。

 

  • 貿易からたどるグローバリゼーションの歴史―序章~第4章

 「序章 グローバリゼーションの物語を練り直す」では、リーマンショックを経て、現状のグローバリゼーション(国家に対する市場の優越)への懐疑が広がるなかで、市場と政府の関係の再考が必要であるとして、世界経済の政治的トリレンマを提起する。すなわち、民主主義、国家主権、グローバリゼーションの3者の同時実現は不可能というトリレンマであり、民主主義と国家主権を優先させ、グローバリゼーションを抑制すべきとする本書の結論をあらかじめ提示する。

 「第1章 市場と国家について――歴史からみたグローバリゼーション」では、17~18世紀の重商主義思想とアダム・スミスの自由主義思想を対比させ、国家と市場を二項対立的にみる通説的見解を示したうえで、そうではなく市場は国家によって支えられており、両者は補完的関係にあると主張する。それをふまえて国内市場と国際市場を対比し、国内市場は法体系、裁判所、警察、社会保障、税制など国家の諸機能を不可欠としているが、国際市場(グローバル市場)にはそうした制度的土台がなく、しかも国内ルールがむしろグローバルな取引を妨げていると論じる。国家と市場は国内的には補完しあい、国際的には乖離するというグローバリゼーションの本質的問題点を初発の段階で指摘しているわけである。

 「第2章 第一次グローバリゼーションの興隆と衰退」は、19世紀から20世紀前半を対象とする。19世紀には世界貿易の拡大、大陸間の人の移動など、グローバル化の水準が上がった。その背景として、交通通信革命、自由主義経済思想、国際金本位制をあげるとともに、帝国主義体制が帝国圏内における国家と市場の乖離を埋めたとする注目すべき論点を提起する。しかし、帝国主義体制は国家間対立を激化させ、第一次大戦、それに続く大恐慌によって第一次グローバリゼーションは終焉を迎えた。1930年代の特徴として、金本位制よりも失業対策、自由貿易よりも保護主義を求める政治的圧力がかつてなく高まった点をあげている。

 「第3章 なぜ自由貿易論は理解されないのか?」は、前章までの歴史的記述と異なり、自由貿易は保護主義よりも望ましいという通説を再考する理論的考察を行う。ここでは、リカードの比較優位の原理は広く支持されているとはいえ、貿易によって縮小する部門の損失など、マイナス面も大きいとみている。総じて、アメリカ経済学界で主流である自由貿易擁護論を批判し、利害得失のバランスのとれた把握が必要であると説いている。

 「第4章 ブレトンウッズ体制、GATT、そしてWTO――政治の世界における貿易問題」は、第二次大戦後に成立したブレトンウッズ体制の特徴を検討し、「グローバリゼーションの黄金時代」と高い評価を与えている。その理由として、第一に、国際経済ルールより国内経済政策を優先させる「節度のあるグローバリゼーション」であったこと、

第二に、多国間主義に基づき国際経済機関(IMF、世界銀行)が国際経済の制度的インフラとなったこと、第三に、GATTが貿易自由化をゆるやかに推進したため、国内経済政策の自由度を高めたこと、第四に、資本移動の自由化には慎重であったこと、などを指摘している。1990年代に入り、WTOが設立されると、金融のグローバル化とともに、ハイパーグローバリゼーションへの転換が生じる。ロドリックはこうした動きに対して批判的であって、その問題点を次の第5~8章で扱うことになる。

 

  • 金融のグローバル化と格差の拡大―第5章~第8章

 第4章までは、貿易のグローバル化を軸にして、ブレトンウッズ体制の展開までをたどってきた。それを受けて、「第5章 金融のグローバリゼーションという愚行」では、

資金の効率的運用を通じて経済成長を図るとする金融グローバル化がいかに問題の多い政策であるかを、ブレトンウッズ体制と対比しつつ論じる。金融の規制緩和はアメリカ、イギリスが主唱し、フランスがこれに合流することによって国際ルールの基調へと転じた。EU、OECD、IMFなどの政策転換が1990年代を通じて進展した。国際金融市場を特徴づけていた固定相場制と資本移動規制がなくなったため、不安定な事態が生じた。一つは、変動相場制の想定外の作用であり、実体経済との対応関係から離れて、為替相場は1日単位で激しく変動し、またレートの過大評価や過小評価が長期にわたって続くことになった。もう一つはアジア通貨危機をはじめとする通貨金融危機の連続的発生である。このようにロドリックは、資本移動の自由化に対して否定的評価を下している。

 「第6章 金融の森のハリネズミと狐」では、市場原理主義を信奉するハリネズミ派とそれに慎重な狐派に経済学者を二分し、前者の思考がいかに非現実的かを浮き彫りにする。ハリネズミ派は市場メカニズムを限りなく信頼し、通貨危機が起これば、それは市場のせいではなく前提条件の不備のためとする。この思考についてロドリックは、「自己奉仕バイアス [成功は自分の手柄、失敗は状況要因のせいとする態度] 」と表現し、ハリネズミ派の自信過剰な態度を批判している。これに対して狐派は、市場は不完全であり、現実は複雑とみる立場であって、その代表的人物としてケインズ、トービン、スティグリッツなどの名前をあげている。

「第7章 豊かな世界の貧しい国々」は、グローバリゼーションとともに国家間の経済格差が著しく拡大した事実を見すえ、そうした格差が何を起源にしてどのように進行したかを考察する。格差の起点は産業革命への対応であり、工業化を可能にした諸国は教育を受けた熟練労働者と市場を支える法・政治制度を備え、その条件を欠く地域は植民地化され、世界は工業国と一次産品国とに分岐していったとする。この理解は目新しいものではないが、注目されるのは例外としての日本の指摘であり、その延長上に近年の東アジアの「奇跡」、中国の経済成長を位置づけている点である。そこでは国家の役割が重視され、現代中国は、グローバリゼーションのもたらす利益を、ブレトンウッズ体制当時の国家の介入という旧ルールを通じて獲得しているとする「逆説」を述べている。

「第8章 熱帯地域の貿易原理主義」は、開発経済学の変遷をたどりながら、途上国に規制緩和、自由化、民営化を押し付ける「ワシントン・コンセンサス」をめぐる問題状況を明らかにする。1960年代までの開発経済学では、保護主義、輸入代替工業化といった国家の市場への介入が基調であった。それが80年代以降、劇的に転換し、市場原理を優先させる自由貿易論が主流となった。しかし、脆弱な国内基盤を無視した単純な自由貿易政策は失敗し、「ワシントン・コンセンサス」は修正を迫られた。ただし、失敗の原因は規制緩和、制度改革が不十分であったことに求められた。ロドリックは、このような短期的には実現不可能な条件をあげるだけの開発政策論を批判し、過剰なグローバル化に歯止めをかけたうえで、一律で総花的な政策でなく、それぞれの国の最も厳しい制約を見極め、その解決に優先的に取り組む選択的アプローチを提案している。

 

  • 世界経済の政治的トリレンマと健全なグローバル化への道―第9章~終章

 ここからが本書の真価が問われる部分である。「第9章 世界経済の政治的トリレンマ」は、深化したグローバリゼーション(ハイパーグローバリゼーション)が1国の社会制度、民主主義と衝突する事態を取り上げる。事例として、労働基準の低下(底辺に向かっての競争)、法人税引下げ競争、健康・安全基準の低下、自由貿易協定における外国投資家保護、新興国産業政策への制約などがあげられる。こうしたハイパーグローバリゼーションによる国民国家と民主主義への挑戦に対して、3要素の同時成立はありえず、いずれかの2者をとって他をあきらめるという3択問題が提示される。すなわち、①ハイパーグローバリゼーションと国民国家を選び、民主主義をあきらめる、②ハイパーグローバリゼーションと民主主義を選択し、国民国家を捨てる、③国民国家と民主主義をとり、ハイパーグローバリゼーションを排除する、という3択である。ロドリックは、①が現状に近いとみて、②が望ましくみえるがそれには懐疑的であり、結局③を選ぶべきだと主張している。

 「第10章 グローバル・ガバナンスは実現できるのか? 望ましいのか?」では、前章の選択肢②の可否について論じている。グローバル化の進展とともに、国民国家の役割が低下し、代りに超国家機関によるグローバル・ガバナンスが登場するという議論があるが、ロドリックはこれには否定的である。超国家機関の事例としてEUがあるが、政治統合には困難があり、またある程度の進展があるとしても、それは共通の文化的基盤をもつヨーロッパの特殊事情によるものであって普遍性がないという。グローバル・ガバナンスの難点として、エリート官僚と民衆の乖離(説明責任、代議制の欠如)、人々のアイデンティティに関してグローバルな政治共同体は国民国家に遠く及ばない点、世界は多様であってグローバル・スタンダードが適用されるのはごく限られた範囲にとどまる点などがあげられる。

 「第11章 資本主義3.0をデザインする」では、グローバリゼーションの深化に対応した資本主義の新しいバージョンについて考察する。資本主義1.0は古典的自由主義経済の段階であり、政府の役割は限定的に捉えられていた。資本主義2.0は20世紀の福祉国家、「混合経済」の段階であり、国家の市場に対する関与は強まり、国際経済における自由化は制限されていた。20世紀末からの資本主義3.0はグローバリゼーションの深化した段階であり、新たなガバナンスが必要とされるが、それは超国家機関によるグローバル・ガバナンスでなく、ナショナル・ガバナンスを基本とする国際協調であるべきだというのがロドリックの主張である。その内容として市場の統治システムへの埋め込み、各国制度の独自性の尊重など7点の指針を示すとともに、気候変動などのグローバル・コモンズの領域はグローバル経済とは別のガバナンスを要するという注目すべき指摘を行う。

 「第12章 健全なグローバリゼーション」は本書の結論に相当する。ロドリックの立場は、グローバリゼーション自体を止めるのでなく、その利点を生かしつつ、適切に管理・制御するというものだ。具体的方法が四つの分野で示される。第一に国際貿易の分野では、これ以上の自由化による利益はわずかなものなので意味がないとして、国内の公共利益(民主的熟議を経て判断される)を優先させる新たな(単なる保護主義とは異なる)社会的セーフガード協定の導入を提案する。第二にグローバル金融の分野では、各国独自の金融規制や基準の重視を前提にして、国境を越えた金融規制(タックスヘイブン規制、金融取引税など)を考慮すべきという。第三に労働移動の分野では、グローバルな所得移転のために外国人労働者受入れを促進すべきとして、先進国の全労働力の3%以内で5年上限の一時的労働ビザ発給というきわめて具体的な案を打ち出している。第四に中国を世界経済に適合させる分野では、厳格な国際ルールを押し付けるのでなく、中国独自の成長政策(産業政策)の権利の承認と引き換えに、貿易不均衡を是正させるという和解策を提唱する。全体として、単一のルールをもつハイパーグローバリゼーションを必然とみる必要はなく、多様な国家群が健全なルールのもとに相互交流する世界経済は可能だというのが著者の結論である。

 「終章 大人たちへのお休み前のおとぎ話」は、著者の主張をわかりやすく記した寓話となっている。

         

  • 世界経済の政治的トリレンマをどう理解するか

 行き過ぎたグローバリゼーションの制御という結論部分、各章に散りばめられた論点は示唆に富み、共感できる部分は多い。しかし、そのうえで本書を読んで感じる問題点を二つほどあげてみたい。第一は、本書の看板である「世界経済の政治的トリレンマ」の妥当性である。まず気になるのは、用語の不統一である。234頁の図に示されている3要素を、便宜的にハイパーグローバリゼーション=G、国民国家=S、民主政治=Dとしよう。これらに相当する本文中の用語として、Gではグローバリゼーション、グローバル市場、グローバル経済、経済統合、Sでは国家主権、国民的自己決定、Dでは民主主義なども使われる(17頁、233~234頁)。これらは用語だけでなく、カテゴリーとしても不統一である。アクターなのか、行為なのか、制度なのか、あるいは追求すべき価値なのか、わかりにくい。特にグローバリゼーションは経済統合の状態を指すのであって、政治的概念としては超国家機関(あるいはグローバル・ガバナンス)とすべきではないか。

 ただし、この問題はそれほど重要ではない。より重要なのは、トリレンマは現実を説明する論理たりえているかという点である。おそらく究極の姿としては、GとSは両立しないであろうが、そのような世界を想像してもほとんど意味はない。現実には、G、S、Dの3要素が併存し、そのウエイトが変化しつつあるとみるべきではないか。すなわち、これまではSとDのウエイトが大きく、Gは小さかった。ところが、グローバル化の進展とともに、Gの存在が大きくなり、Sはそれに引きずられ、その分だけDのウエイトが下がったと考えればどうだろうか。TPPなどはその一例と言えよう。そうであるとすれば、Dの役割を強め、Sを引き付けて、Gを抑制するという形で、ロドリックの主張を位置づけることができる。トリレンマの固定化、そこから導かれる3択問題の設定は、明快な反面、現実的と言えないのではないか。

 

  • グローバル・ガバナンスは不可能か

 第二の疑問点は、ロドリックのグローバル・ガバナンスに対する否定的理解についてである。第9章の3択問題で、彼が②を選択せず、③を採用しているのは、グローバル・ガバナンスが実現不可能なだけでなく、望ましくないと判断しているためである。実現可能性に関しては、たとえば、「グローバル・ガバナンスは、これまで考えてきた課題の解決に、ほとんど役立たない」(263頁)、「グローバル・ガバナンスの探求は無駄骨に終わる」(273頁)、「グローバル・ガバナンスの探求が現実のガバナンスに行き着くことはほとんどない」(274頁)といったネガティブな記述が繰り返される。しかし、これはグローバル・ガバナンスと国民国家を二者択一的に設定しているためであり、両者の併存を考慮しない硬直した理解ではないだろうか。

 望ましくない理由については、第10章で、民主主義・説明責任の欠如、グローバル共同体に対する人々のアイデンティティの弱さ、グローバル・スタンダードより各国の独自性を尊重すべきだといった点があげられている。しかしこれもグローバル・ガバナンスを高いレベルの制度として狭く解釈しているためではないだろうか。「民主主義の範囲が国境を越えて拡がることはほとんどない」(280~81頁)と述べているが、国際機関の民主主義的運営に関しては、様々な可能性があるのではないか。ついでに言えば、各国の独自性の尊重が強調され、グローバル・スタンダードが消極的に捉えられていることには違和感がある。たとえば、国際労働基準の説明のなかでインドの児童労働が必ずしも否定さるべきでないといった記述があるが、このような普遍性と独自性の折り合いの付け方には疑問を感じる。

 グローバル・ガバナンスと地球環境問題との関係づけにも疑問がある。第11章では気候変動問題を取り上げ、これは個別国家を超えたグローバル・コモンズの問題であるから、グローバルな協力が必要と述べている。そうであれば、地球環境問題にはグローバル・ガバナンスが必要となるはずだが、ロドリックの主眼はグローバル経済問題に向けられ、グローバル・コモンズとグローバル・ガバナンスの関係には立ち入ろうとしない。グローバル経済とグローバル・コモンズは別物と断定してしまうのである。なぜ、両者を区別するのか。国境を越える問題としての共通性に着目し、その解決のための取組としてグローバル・ガバナンスを広く位置づけてもよいのではないか。

 そう考えてくると、本書のなかには広義のグローバル・ガバナンスの事例はいくつも盛り込まれている。金融取引税、タックスヘイブン規制などがその代表例である。民主政治を基本としつつ、国民国家とグローバル・ガバナンスが役割分担をしながら行き過ぎたグローバリゼーションを制御することが、目指すべき方向ではないだろうか。